第1章「魔法のような時間を過ごす」
人生の大半を魔法のような時間を使って過ごす。
多くの人がこの魔法のような時間を
熱望しながらも手にする事なく
挫折していき、画家になる夢を諦めた。
魔法のような時間とは何なのか?
それは思い描いている夢の画家生活を現実にする事。
そしてこれを手に入れるにはまず
絵の上達が必要不可欠。
人に必要とされる独創的な絵を描く事が
できれば次は仕事の取り方の情報を頭に入れる。
この情報というものは甘く見ている人が多いが
これは今後画家活動をするにあたり
絶対に必要なものになる。
そして、ここまで来てようやく
画家としての道を歩みだす事ができる。
分かりやすく言えばこのような感じだ。
絵の上達(独創的な絵の描き方)
↓
情報
(どうすれば絵の仕事を取れるのか?)
(自分で構築できるのか?)
↓
絵で収入を得る。
↓
自由に時間を作る事ができる。
会社からのストレスを感じる事もなく
絵を描きながら時間に縛られずに
ゆったり生きていく。
朝好きな時間に起き、
いい作品が頭に浮かんだ瞬間に絵を描き、
遊びたい時は遊び、
旅に出たい時はいつでも出れる。
天気の良い日は気分がてらに
海まで散歩をしながら冷たいビールを飲む。
集中したい時には山奥のコテージに泊まり、
川や森に囲まれた自然環境の中でコーヒーを
飲みながらゆったりとした時間とともに
次に描く絵の構想を考える。
そして描きたい場所で絵を描きため、
好きな場所で個展を開く。
そんな生活をしながらも自分から
生み出されるアートで人を魅了させ
余裕のある収入を得ながら無理のない生活をする。
絵を描きながら収入を得る事ができれば
個展用の作品もためていく事ができる。
画家にとって時間の自由はとてつもなく
重要であり、この生活を送り続ける事が
できる能力の持ち主が魔法の時間を使う事ができる人物なのだ。
それなら原画を売って生活している人は
魔法の時間・・・
つまり自由な時間を
手に入れていると言う事なのか?
っと言うとそうでもない。
原画を売る事により収入は発生するが作品は
売った人の元へ行ってしまうので手元には
何も残らず、個展用の絵を描きためたり、
好きな場所へ行く事ものんびりした生活を
送る事もなかなか難しい。
僕も世界中にいる5人のクライアントさん
にしか原画は売らない事にしていた。
その理由は2つある。
まず1つ目が絵の価値を上げるため。
そして2つ目が、
わざわざ原画を売らなくても
絵を利用して収入を得る方法(情報)を知っているからだ。
人生は限られた時間しかない。
原画を売って個展用の絵も描いて・・・
となると効率も悪く、自分の魂を込めた
作品を手放す事になるのは悲しい。
人生の限られた時間を浪費してしまう事に
僕は深く抵抗がある。
なので僕はそんな夢のような生活を叶える
魔法のような方法を探し求めるため
世界一周の旅にでた。
僕の人生の中で
大きな分岐点となる旅の始まりだった。
そして・・・
ついに世界43カ国以上を旅しながらも
絵を描いて生きる方法を僕は発見してしまった。
絵のスキルも素人以下しかなかった
学生時代の頃の僕にはこんな夢のような
生活をしているなんて想像もしていなかった。
絵を売って生活していた時や
世界に旅にでる以前は少なくとも
この生活をする事はできなかっただろう・・・
しかし今では絵でお金を稼ぎながら
海外を旅する事ができるようになった。
現在は沖縄を拠点として活動している。
第二章「人生は壁ばかり」
「何夢みてるの?」
「レベルが低いから無理じゃない?」
「大丈夫!なんとかなる!って言ってるけど全然ダメだし」
これらは僕がまだ絵を描きだした頃で
素人以下のような絵しか描くことができず
人よりズバ抜けたスキルなんて何一つ
持っていなかった当時22歳の僕に
投げつけられた言葉だった。
飲み会で会った初対面の人や
当時の仕事場の店長にも・・・
そして当時の彼女に別れ際に言われた・・・
重い一言・・・
僕は夢を持って生きていた。
絵の仕事をして生きていくと言う夢を・・・
しかし、スキルがない僕が何を言っても
何の説得力もない。
応援してくれるのは
まわりの親しい友人だけだった。
友人には本当に感謝している。
僕が専門学校に行きだした22歳の頃は
1人暮らしをしており、学費を払いながら
バイトを掛け持ちして学校の課題で
睡眠時間は1日2、3時間しかなかった。
かなりの極貧生活で体も見るからに
やせ細っていき、1日50円しか使う事が
できない地獄の日々を送っていた。
まわりの友人はそんな僕を助けようと
専門学校に通っている間の2年間、
毎週食料とビールをわざわざ
買ってきてくれたのでかろうじて生きる事はできた。
僕は昔から友人には
恵まれて育ってきた方だと思う。
そんな事もあり無事に専門学校を
卒業する事ができたが・・・
次の大きな壁が待っていた。
絵関係の就職をしなければならなかった。
しかし絵の仕事というものが
ほとんどない事に卒業間近になって知り、
僕は焦りはじめていた。
なぜなら18歳の頃から35歳までの
人生計画を立てていたのだが、
絵の就職ができなければ先へ進む事はできない。
こんな所で立ち止まってる暇はないと
思っていたが、どうしても絵の職を
見つける事ができず、想像していた自分と
全く違う現実の自分に心底落ち込み、
心が病んでいくのを感じた。
心が病みそうになる時、
僕は沖縄に逃げる事にしている。
これは2度目の逃亡である。
1度目は専門学校に行く前に
学費をためようと就職し、
その会社でパワハラに合っていた時だが、
この話はまた次の機会に話していこうと思う。
今だから思うが、辛い事や悲しい事から
逃げてはいけないと言う人もいるが
リセットしてやり直すために一度逃げる事は
最善の策だと僕の経験から強く感じた事だ。
実際この時も沖縄に行く事によって自分の
浅はかな固定概念を崩す事ができた。
「就職とはそんなに大事な事なのか?」
「絵の就職より絵の人生に必要なスキルを
手に入れる事の方が重要なのでは?」
そう思った僕は絵のホームページを作るため
WEBサイト制作をしている会社で働きながら
WEBとグラフィックデザインの勉強をする事にした。
目的は自分のホームページを
会社に隠れて作る事だった。
しかし、すぐにバレてしまったが、
仕事の合間をぬって作るならヨシ!
という空気が流れ始めたので仕事も
ほどほどに、
そのままホームページを作り続けた。
今ではすっかりホームページの作り方を
忘れてしまったが、何とか自力で
ホームページを形にする事ができた。
自分のホームページが完成したその日に
WEB会社を辞め、まずはお金を貯めようと
各地に足を運び営業活動をしていき、
気が付けばグラフィックデザイナーとして
様々なクラブやイベントのポスター、
そして海外雑誌などの仕事が
舞い込むようになっていたが
まだまだ収入的には満足いくものではなかった。
その後、絵の仕事に切り替え、
営業活動が功を奏したのか少しづつ
軌道に乗り始め、絵の依頼や
オリジナル商品を販売していた。
数ヶ月経った頃にはWEB会社で働いた時の
貯金や絵の依頼、オリジナル商品で
小額ではあるがお金も貯まっていた。
しかし、まだまだ絵だけで生活できる
レベルではなかったし絵のスキルも
満足行くほどではなかった。
そして僕は画家人生の中で
大きな計画の一つでもある
「海外へ絵の修行をしに行く」
を実行にうつす事にした。
絵のスキルをさらに極めるためでもあり、
何より、絵で生きる方法を知りたかった。
この頃からすでに海外に行けば
何か方法が見つかるはずだと確信していた。
この時すでに絵を描き始めてから
3年の月日が流れており、ここまで来る間に
挫折も味わったが、全てが上手くいき順調に
物事が進むようになっていた。
英語もthis is a pen くらいしか話せず、
英語を聞きとる事も困難だったが
全てが順調に進んでいた僕は心に1ミリの
不安も感じなかったし、
1人で海外へ行く事に何の抵抗もなかった。
まさにイケイケの状態である。
しかし、世の中そう物事は上手く進まない。
オーストラリアへ修行の旅に出る一週間前に
突然大きな不幸が訪れてしまった。
弟がバイクで違う世界へ旅立ってしまったのだ。
両親はショックで落ち込んでいる。
僕も動く気力を失ってしまった。
修行の旅は延期する事にした。
落ち込んだ両親をほって僕だけ
オーストラリアに行く事はできなかった。
弟の事故から僕はオーストラリアへ行く話は
あまりしないようになっていた。
しかしそれから2ヶ月経ったある日・・・
両親の方から
「オーストラリアへは行かないの?」
と聞いてきたので僕は即答で行くと答えた。
やはり今まで絵で生きるために活動してきて
ここで立ち止まってるわけにはいかないと
心の中で密かに思っていたのだ。
それにこれを理由に活動を辞めてしまうと
何だか弟のせいにしているようで
気分が悪かった。
両親には絶対に危ない場所には行かないと
約束をして、いよいよオーストラリアへ
絵の修行の旅に出発する日がやってきた。
オーストラリアでは様々な事を学び
一年間で驚くほど多くのスキルを
身につける事ができた。
「海外で画家として収入を得る方法」
「絵の仕事のうけ方」
「絵の一番早い上達法」
「一番効率の良い絵の宣伝方法」
「日本人と外国人の絵への価値観の違い」
「人を引き込む話の仕方」
「お金をかける事なく旅をする方法」
「安いのに贅沢な宿の探し方」
「英語力」
「英語の勉強方法」
「外国人の友達のつくり方」
「外国人とのコミュニケーション能力」
「外国人から絵の仕事をうける方法」
「自分からしか生まれない作品を描く方法」
「僕だけの絵のタッチの描き方」
などなど
他かに精神面でも様々な事を学ぶ事が
できたし、人には信じてもらえないような
不思議な体験もする事ができた。
そしてオーストラリアの旅が終わり、
日本に一時帰国する事にした。
なぜなら僕の兄が父親になる
という報告を受けたからだ。
これで弟を亡くした両親の悲しみも
少しは癒えるだろうと安心した。
そして兄の子供が生まれると同時に次は
画家として生きるためには様々な刺激が
必要だと感じ、世界を回り僕の絵に大きく
関係してくる情報を集めるための旅に出る事にした。
「どうすれば少ない旅費で旅ができるのか?」
「どの国の人が絵への関心が強いのか?」
「日本に滞在しながら海外の人から依頼をうける方法」
「ライブペイントをするのに最適な国や島」
「ライブペイントをする時の許可の取り方」
「自分の絵が人に及ぼす影響」
「自分だけからしか生まれない絵の価値」
など、また新しく自分の経験値として
人生の武器になるものを数多く手にする事ができた。
世界は広く、様々な分野のアーティストに
出会い、日本ではありえないような
カルチャーショックも何度も体験する事になる。
世界各国で友人や
クライアントさんとも出会い、
強盗にあったり野犬に襲われたり
お金を騙し取られたりと危ない経験を何度も遭遇してきた。
気がつけば43カ国以上旅をしていた。
そしてとうとう僕は日本に滞在しながらも
絵を描きながら自由に生きる方法を発見し、
それを基盤に今では何不自由ない生活を送っている。
僕の通ってきた道をそのまま
あなたに伝え、それを実行に移す事が
できれば、個展などを開いた時に
あなたの絵を数多くの人が見にやってくるだろう。
僕の場合はアトリエや海の前で
絵を描いているだけで絵の収入が
入ってくるようになっているので
個展は気が向いたら東京かNYで
定期的にしようと思っている。
この生活ができるようにする為に
僕はZiNARTメンバーにだけ
その方法を伝えていこうと考えている。
三章「僕の夢」
僕の最大の目的はあなたが僕と同じような
生活をおくる事ができるようにする事。
もうすでに僕と同じように
絵を描く生活を手にいれた人もいるが
あと少しだけ人数を増やしたい。
そうする事により、アーティスト集団を
結成したり、協力して大きなイベントなども
開催する事ができるからである。
僕は普通の人が体験できないような人生を送ってきた。
その中で得た画力向上術や画家になるための情報、
僕の歩んできた道をZiNARTメンバーに伝えていく事で
絵描き人生の第一歩を踏んでほしいと思っている。
そのためにもまず人を魅了できるための
画力向上が必要である。
僕から言わせれば確実に画力向上をさせる事が出来る。
なんせ今まで多くの人の画力を上げる事に
成功した実績があるので。
世界画家旅人の記事でも書いている事だが
僕は本当に絵が下手だったのだ。
そんな僕でも今の生活ができているのは
行動した結果がそうさせている。
「このレベルで絵の仕事もらえるの?」
「夢みんと就職しなさい」
確かにそうだと今では納得できるこの言葉は当時18歳の
夢を追い始めたばかりの僕へ投げかけられた言葉だった。
親も僕の将来を心配していたようで普通の会社に就職して
普通に結婚し、普通の家庭を築いてほしかったようだが
僕はそんな反対をおしきって夢に向かって走り始めた。
絵の大学に入りたかったが親に反対されたので学費を
貯めるためにひとまず工場で就職する事にした。
・・・が、そう人生はうまくいかない。
会社で職場の主任にパワハラに合い、ストレスで僕の額は
ガチャピンの手のようにデコボコに腫れ上がり・・・
夜勤と昼勤が一週間づつ変わる交代制のきつい
職場にもかかわらず考えられないほどの安い給料で学費も貯まらない・・・
思い描いている自分とはほど遠い生活を送る事に
精神的にも追いつめられ、死のうと思うまでになっていた
そんな時・・・
中学時代からの友人が先に天国へ旅だってしまったのだ。
身も心も病んでしまった僕は沖縄へ逃亡した・・・
沖縄へは2度逃亡しているがこれが一度目の逃亡。
僕が20歳になったばかりの頃の始めての一人旅だった。
しかし人生とは何が起こるか分からないもので
その経験が旅をしながら絵を描いて生きる原点になるとは
この時の僕は想像もしていなかった。
そして心身ともに回復した僕は死ぬくらいなら
仕事をやめてお金を貯める事だけ考えようと思い
様々なアルバイトをした。
18歳で就職してから4年の月日が流れ、
学費全体の半分を貯める事ができたので
ようやく22歳で専門学校へ通う事になる。
大学は学費が高く手が届かなかったので
専門学校へ通う事にしたのだ。
ここから現在の生活が
出来るようになるほど
飛躍的に絵が上達していくのだが、
今思うと無謀とも思えるほど
僕は絵の才能がなかった。
絵を描く事は好きだったが、
やってきた事は落書き程度・・・
しかし僕には
「絵が絶対にうまくなって世界に通用する画家になる」
っと根拠のない自信だけはあったのだ。
その後、世界中を旅して絵を描きながら
収入を得る事ができるようになり、
英語も話せるようになり、
外国人の友人やクライアントさんを抱え、
ここまで自由に生きる事ができるとは
この時想像もしていなかった。
ただ漠然と世界に通用する画家になると
思っていただけなのだ。
「絵を描く」と「絵で生きるための方法を知る」
この2つを手に入れた時人生は大きく変化していく。
絵を描きながら一生過ごしたい・・・
部屋にプロレベルの絵を描いて飾りたい・・・
そんな事も可能になってくる。
しかし絵を描いて生きていきたいと言う人は
この世の中に数多くいるのにもかかわらず、
絵で生きていく方法を知らない事で
その夢を諦める人が多すぎる・・・
その状況を当時の僕は
指をくわえて見ているだけだった。
これは非常に悲しい。
なのでまずは絵に自信がない人のためにも
オンラインZiNART絵画教室で
独創的な絵を描けるようになる方法も
お伝えして行きたい。
そして、ZiNARTメールマガジンでは
僕がしてきた活動をお伝えしていく。
その方法を知って画家を目指して欲しい。
自信を持てるようになって欲しい。
僕はそう強く願っている。